失恋をしたことがある人ならば男女関係なく“私”の気持ちが少しは分かるのではないか。
私も初めて失恋を経験した時はなぜフラれてしまったのか分からず、少々オカシナ行動をいていた記憶があるが恥ずかしすぎて思い出したくないし思い出す必要もないのでそのあたりの事情は書かないですますつもりである。
森見登美彦氏の文章をちょっと真似てみました。
私もいわゆるクリぼっちと言われる部類に入るタイプの人間なのでクリスマスファシズムにはうんざりしている。
“私”には恋人はいなくても友人がいるので私よりマシな気もする。だって私はクリぼっちなんだよ!
なんだよクリぼっちって!一人の何が悪い!ばかやろう!
というかマジで電力の無駄遣いだからどこもかしこも電飾つけてくれるな!
私の地元の駅のロータリー、あんなとこキラキラさせてどうするんじゃ!
とまあ私の気持ちは置いておいて。
そんなクリスマスが差し迫る十二月の京都で“私”はおそらくいつもと変わらぬ、だけどちょっぴりおかしくて奇妙な日々を送ることになる。
私は“私”がとても好みなんですよ。
こんな可愛い人はなかなかいないと思いませんか?
何が可愛いかといえば男だけのフォークソングを踊り狂ったり、愛用の自転車に「まなみ号」と名付けたり、待ち合わせに遅れている相手をむしゃくしゃしながら待つ若者を巧みに演じたり、世界平和のためにやんちゃなジョニーの御機嫌を取ることに気を配っていたり、珈琲を豆から買って淹れて飲んでいたり、手紙を書くのが好きであったり、恋人と過ごす初めてのクリスマスイブに浮かれたり、クリスマスプレゼントに招き猫を贈ったり。
全てあげればキリがないと思い途中でやめようと思ったけど、キリがないほどではなかったので思いつく限り書いた。
“私”とはこういう人間ではないかと推測して可愛いと感じる部分もあるけれど、あくまでも私の推測、いわば期待になるのであえて書かない。
とにかくこんなに可愛い“私”を袖にした水尾さんに嫉妬すら覚えるほど、私は“私”が好みである。
そんな“私”の周りには絶望のダンスを共に踊り狂う友人がおり、恐ろしいほどの眼力を持つ同級生がおり、気が狂っちゃった後輩がおり、恋のライバル(?)のような男もおり“私”の日常に求めてもいないスパイスをふりかけていく。
友人たちもまた魅力的で彼らの紹介には愛を感じる。お気に入りの部分。
物語は簡単に言えばどこにでもいる大学生のよくある失恋の話。
だけど私の偏見もあると思うけど、京大生と聞くとなんかちょっと変わった人なんじゃないかと思うし、京都という街はなんだかミステリアスな雰囲気が漂っているしそれだけでもおもしろい気がしてくる。
それが森見登美彦氏の独特な言い回しや表現で素材の良さがより引き立ってくすくすと笑わせてくれて最高です。
ゲラゲラじゃなくてくすくす笑っちゃう感じがたまらない!
名前のない現象に名前を付けたり、物の名前を言い換える天才じゃないかと思います。
私は森見登美彦氏の作品が好きすぎて京都に住んでいたことがあるので、実在する通りの名前がわかるのでまたおもしろい。
今はわけあって翔んで〇〇に住んでいるけど、またいつか京都に住みたい。
ちなみに〇〇もいいところ。
初めて読んだ時は百万遍の交差点とか言われてもピンとこなかったのでファンタジーな雰囲気の方が強く感じた。
その時は感想とか残していないけど、おもしろいと思ったのは覚えている。
でも住んでみてなんとなくの地理が分かるとおもしろさがまた違う!
妄想と思索と現実のバランスが絶妙というのか、ありえないことでも京都という街の雰囲気でなんかありそうな気になってくるから不思議。
むしろ何か起こってほしい。
森見登美彦氏の作品を読んでいると小学生の時、初めてハリーポッターを読んだときに感じたドキドキとワクワクを思い出す。
京都の街のどこかの路地には9と3/4番線のような場所があって、叡山電車が不思議な世界へ運んでいってくれる。
時々何を読まされているのだという気持ちになるのだけど、元恋人が“私”を袖にしたその謎を解明すべく研究をしているのを忘れちゃいけない。
京都会館での“私”がライバルにしてあげたことがわりと好きだ。
きっとその男を見てかつての自分の姿を思い出したのではないかと思ったし、その男と接するうちに目を背けていたことと向き合えるようになったのではないかと思った。
だから励ますような、背中を押すようなことを自然としたんだろうなと。
泣けてよかったね、という気持ちになった。
どういうふうに二人のお付き合いが始まったのかはわからないけど、一度も「好き」と言えなかったんじゃないかな。
それが理由ではないかもしれないけど。
「惚れた」とは書いても「好き」とは書いてないのでなんとなく。
意外と気にする人多いですよね?
「好き」って言ってもらったことがない、あの人は本当に私のことを好きなのかと悩む人。
私の友人にも何人かいたよ。大人になってもそういうこと言ったりするんだから「好き」ってちゃんと伝えるのは大事なんだよ、きっと。
でも口だけのヤツもいるからなあ笑
言葉にしなくても気持ちがちゃんと伝わっていれば不安になることはない気はするけど。
読んでいる私には“私”がどれほど彼女を好きだったかよくわかるよ、うん。
京都に住んだことはあるけれど、まだ太陽の塔には行ったことがない。
この物語の中で太陽の塔はとても重要なアイコンになっているというかタイトルがそもそも“太陽の塔”なのだからそりゃそうだろう。
しかし私は太陽の塔も岡本太郎さんのこともよく知らない。
少しでも知っていることがあれば何か思うことがあるのかもしれないけど、考えてみても何も思い浮かばなくてちょっと悔しいいい。
太陽の塔は偉大で、同じように“私”も偉大で。
彼女が瞬く間に太陽の塔の魅了されるのを嬉しく思っていたけど、袖にされたことによって同じように偉大な存在であるはずなのに何が違うのだと、太陽の塔に劣等感のようなものを抱くようになったのかなと解釈してみました。
だから祈りを捧げるがごとく低頭したのかと。
うん。今年中に太陽の塔へ足を運んでみよう。
そしたら本の感想もまた違ったものになってくるかもしれない。
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